読書感想

「人生に意味などない」禅僧が教える心がラクになる生き方

「人間は何のために生きているのだろう」
「死んで、それで終わりなら、ただただ好きなことだけをして生きていけばいいのだろうか」
小学校に入る前から、そんなことをずっと考えてきました。

幼稚な頭でそんなことを考えていると、いつも最後はブラックホールに吸い込まれていくような感覚になって、「あ、あ、あー」と、その問いは迷宮入りをするのでした。

「人間は、どうやって生きれば、充実して最高の人生を送れるのだろうか」
その答えを得るために、その後、哲学、成功哲学、精神世界の本を好んで読んできました。

頭の悪いボクは、完全に納得できるような答えをまだ得ていません。
いまだ模索中。

あるとき、「人生に意味などない」と書いてある本に出会いました。

なんとまあ、大胆なことを言うなあと思い、読んでみることにしたのです。

「禅僧が教える心がラクになる生き方」南直哉著

著者の南直哉さんは、永平寺で僧侶として20年、いまは青森県にある霊場、恐山の院代(住職代理)をされています。

ボクは以前、東京都新宿区上落合にある日本心霊科学協会で霊視してもらったことがあるのですが、そのときに前世は永平寺の修行僧だと言われたのです。
あ、日本心霊科学協会は、宗教などではなく、純粋に科学的に心霊を研究する協会です。

で、なんだか永平寺にいた南さんに親近感を覚えたりもします。

仏教はツール

南さんは、言います。
「仏教は、ツールであり、生きるためのテクニックである」

うーん、クールですね。
仏教はツールと言い切ってしまうところは。

そして、もしあなたが今の状況を変えたいと感じているのなら、仏教というツールを試すのも悪くないとも書いています。

目次で気になったところ

本は4章からなり、それぞれに小項目があるのですが、そのなかで気になったところを以下にあげます。

  • 「生きる意味は」は見つけなくてもいい
  • 「なりたい自分」になれたくたっていい
  • 「置かれた場所」で咲けなくていい
  • 「人生に意味などない」というところからスタートする
  • 「生きがい」や「やりがい」をつくる必要はまったくない
  • 人脈も友だちも、いらない

世の中の常識とは、ズレていますよね。

生きる意味は見つけなくてもいい

「意味のある人生」や「有意義な人生」を送らなければと、肩ひじを張らなくても大丈夫。
生きる意味など探さなくても、人は十分幸せに生きていけます。

冒頭に書きましたが、ボクは「人間は何のために生きているのだろうか」と考えてきました。

成功をして大金持ちになる、社会的に名声を得る等々、なにか特別なことを成し遂げなくてはいけないのではないかと、若いときは考えたものです。

でも、「生きる意味は見つけなくてもいい」とは。

「夢は努力すれば叶う」といった物語に乗れない人たち、自分のどうしようもなさにうんざりしていた人たちは、仏教のこのような考えに触れると、心が軽くなり生きるのがラクになるとも南さんは言います。

人脈も友だちも、いらない

本来、人が生きていくのに必要な人間関係はごく限られています。
多すぎる友だちは新たな悩みやストレスを生み、心を疲れさせるだけです。

ああ、これはスゴく同感。

最近は、友だちがより多いことが人間的に優れているような風潮があるように思います。

つながろう、誰かとつながろう、そうしなければダメだ。
友だちは、多ければ多いほど良い。

ボクは、群れるのが苦手なので、そういう考えには同調しない。

35歳で脱サラしてからは、「好きなことだけをする」、「嫌いな人とは付き合わない」を頭に置いて生きてきました。

その結果、収入が減ったり、友だちが減ったりしてきましたが、いまは、とても快適に生きていけるようになりました。

収入は、右肩下がりだったのが、いまはプラスに転じて少しづつ伸びてきています。
だいじょうぶ、心配しないでください。(誰に言ってるの?)

人間関係も、すこぶる良好。

移住当時はひとりも知り合いがいないので、いろいろなところに顔を出し積極的に交友関係を広げてきました。
その結果、安房地域にもたくさんの友人知人ができました。

いまは、イベントや集まりには、あまり出かけることは無くなりました。
人が大勢集まるところには、自分にとって苦手な人もいますからね。

いまは、好きな人たちと付き合いながら、のんびり暮らしています。

まとめ

こういう坊さんもいるんだなぁ。
新しい考えに触れて、楽しくスッキリとした読書でした。

仏教も受け取る人によって、解釈が違ってくるようだ。

仏教を人生をラクに生きていくための1つのツールとして、これから利用していくのも悪くないな。

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